皇紀2681年 辛丑

みなさま明けましておめでとうございます。
  昨年は新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により世界中からそれまでの平穏な日常とそして多くの尊い命が奪われた一年でした。残念ながら、依然としてその収束の目途はつかず、より感染力の強い変異種までもが発見されており、我々人類は当面の間、目に見えないウィルスとの共存を余儀なくされることになりそうです。今から100年後200年後から今の時代を振り返った時に、令和2年以降の数年間は、人類とウィルスとの闘いの記憶として間違いなく歴史に刻まれることでしょう。
  我が日本国を取り巻く環境も年々厳しさを増してきており、国際情勢や国内の政治情勢も厳しいかじ取りが続きそうです。
  
  本年の干支は「丑」です。「丑」という字は、手の指を曲げて物を握る様子を表しており、「つかむ」という意味があるそうです。また、「牛」は近代化以前の日本の農業に欠かせない動物であり、過酷な農作業も地道に最後までこなすことから、丑年は粘り強さや堅実さを表す年とも言われているようです。

  干支といえば、私の両親は二人とも丑年の生まれです。父は昭和12年3月、母は同年5月で二人とも今年で84歳になります。
父は群馬の甘楽郡という山間の育ちで9人兄弟の7番目、実家は牛の飼育と養蚕業、多少の畑仕事で生計を立てていたので裕福ではなかったものの食べることには困らなかったようです。15歳で東京に出てきて以来食肉業一筋。心臓病のため74歳で引退するまで、まさに牛のように働いてきた人でした。
  一方、母は東京は中野の生まれで、父親は東京都(当時は東京市)の消防署職員でしたが、母が5歳の時に召集され昭和20年8月10日南方のビルマで戦死しました。母親は、都内の空襲がひどくなってきたため、まだ幼かった私の母を連れ山梨県の笹子というまちに疎開し、炭を焼いたり、借り受けた畑を耕したりして生計を立てていましたが、もともと体の弱かった母親は疎開先の笹子の地で昭和20年10月に病死してしまいました。
  この時点でいわゆる戦争孤児となった母は、失意のどん底、悲しみに暮れるところでしょうが、まだ8歳で幼かったことや、また、時代がそうさせなかったのか母親の弟夫婦とともに心機一転生活をはじめて、知人の伝手で市川市に転居し、素人ながらも器用だった叔父さん(弟さん)が食肉販売業を始めて生活の基盤を整えたのでした。
  昭和38年、両親ともに26歳の時に結婚、40年には私伸一が長男として、42年には啓二、44年には長女になる久美がそれぞれ生を受け、それから半世紀にわたり、両親は、子供3人を育てるため、まさに、農耕馬いや農耕牛のように朝から晩まで働きました。

  長生きの節目は、満60歳の還暦から始まり、古希、喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿、百寿等々いくつもありますが、84歳を祝う「はし寿」というのもあるようです。
 「8」と「4」で「はし」の語呂合わせのようですが、言いえて妙なものです。
私も、3月で56歳となるわけでもう4年もたてば還暦。光陰矢の如しです。父は大病したとはいえ、両親ともに何とか頑張っているので、はし寿のお祝いもかねて、そろそろ新年の挨拶に行ってこようと思います。

  冒頭でも申し上げました通り、暫くは非日常生活を続けざるを得ませんが、今年一年、市民からの相談には100%対応することをお誓いするとともに、市民一人一人のご健勝、ご多幸を心より祈念申し上げ新年の挨拶とさせていただきます。

  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。