総合商社的な在り方

  総合商社といえば、私の場合は、M商事やM物産、I忠、M紅等その他数社日本を代表する大手商社を連想する。しかし、一方で、複数の不祥事や週刊誌ネタにされてしまう政治家さんのことを疑惑の総合商社などと国会で騒ぎ立てている人もいたので、こちらを連想する人もいるかもしれない。長年にわたり日本経済、いや世界経済か、に貢献している総合商社もいい迷惑である。
  総合商社というのは、あえて説明の必要はないと思うが、ある特定の分野に特化した専門商社に対し、多岐にわたる幅広い商品、サービスを行う広義の意味の卸売業で、これは日本特有の形態で、海外では「Sogo shosha」と表記される場合もあるらしい。もっと平たく言えば何でも扱う会社ということだろうか。
  少し前から感じていたことではあるが、これからはこのいわゆる”なんでも屋さん”的な形態が必要とされるのではないだろうか。さらに言うなら、かなりの高いレベルのクオリティで提供できるなんでも屋さん。
  私が子供のころ、昭和40~50年代にかけては、町なかでも専門的な商売が多かった。私の実家も専門の肉屋であったように、魚屋、八百屋、花屋、包丁屋、畳屋、お菓子屋、パン屋、食堂等々我々の生活になくてはならない必需品を扱うお店がそれぞれ個別に店を構え、その集合体が地域の商店街を形成していた。
  地域によって時間的な差はあるだろうが、私の住むここ市川市も駅前の再開発に伴い安売りをうたう大手スーパーを誘致し、また、他の同業者もそれに追随して出店したため、安売りスーパーの戦国時代へと突入していった。たしかに雨風にさらされず一つの場所で食卓にのせる食材がすべて安価で手に入れられるのは消費者にとってはとても便利で魅力的なことでついつい消費意欲もそそられるというものだ。対して、それまで住民の生活を支えてきた地元の”専門商店”は大打撃だった。
  別にここで商売の栄枯盛衰を分析するつもりはないし、また、その善悪功罪を問うつもりもさらさない。まぁいうなれば時代の移り変わりということかもしれない。おそらくそうであろうことは以来今までの約30年を見てみればわかると思う。

  最近、よく電器量販店に行く。市川駅から電車で20分も乗れば、雨風を全く気にすることもなしに秋葉原の駅に隣接している巨大量販店に到着する。電気量販店といっても、各階別にスマホ、PC、ステレオ、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、テレビ、美容用品、時計、文房具、模型、ドローン等々どの分野においても最新式のものが所せましどころか広いフロアにありとあらゆる新製品がそれこそたくさん整然と並んでいる。土日休日ともなれば、各階老若男女で混み合い、客からの質問にスタッフの対応が追い付かないほどの盛況ぶりである。学生の頃御茶ノ水にある学校の行きかえりに秋葉原の電気街をよくうろついて、当時ステレオに関心のあった私は、スピーカーの専門店やCD、また到底手の届かない車一台分もするようなアンプからの音源を聞き比べたりしていたものだった。それはそれで楽しい思い出だが、秋葉原の再開発に伴ってできたその”電器量販店”はそのような専門のお店や商品を分野別にしかも高い次元で一か所に集約し再現している。旧電気街が再開発されると聞いたときは一抹の寂しさを感じもしたが、破壊と創造を体現したようにみごとに秋葉原は今風に変身したとおもう。
  では別の業種はどうか、たとえば回転ずし。目の前で、皿ごとに違うネタをのせたスシが回るのは奇抜だったし値段も100円、120円でスシという高級食材をぐっと庶民の手元に引き寄せたのが回転スシだった。当初は、ネタそのものの旨さよりも気軽さとエンタメ感が受け一世を風靡したものだが、競合店の参入などで回転スシは淘汰が始まる。そこへ出てきたのが大店舗による回転スシだ。店舗の1階に駐車場、2階に店舗という具合に家賃の高い首都圏でも大人数のお客様に対応できるように工夫している。そしてなにより工夫しているのがネタだ。それまでのスシといえば海で捕れる魚のネタがほとんどだった。ところがここ最近は、唐揚げやラーメン、ローストビーフやエビフライのにぎり、茶わん蒸しにお子様ランチ、デザート、コーヒー、おもちゃ等々、あらゆる世代のお客様が楽しめる品ぞろえが普通になっている。さらに、きれいな画像付きのタッチパネルを各テーブルに備えてあるので小中学生の子どもたちと行ってもエンタメ性は健在である。むしろ文字と値札だけよりもわかりやすいし親切である。加えて大手回転スシチェーンのなかにはネタの鮮度や醤油、シャリに相当のこだわりを持っているところもあり、回転スシ=安かろうまずかろうという概念を見事に払しょくした。実際、私も札幌や金沢でそれぞれ異なるチェーン店の回転スシをいただいたことがあったがネタは新鮮でとてもうまかった。市場規模も1兆円に近いといわれる回転スシ業界は、創意工夫を重ね昨今のコロナ禍にもかかわらず伸び続けているのである。

   さて、縷々述べた来たけれども、すべてがすべてそうだとは限らないが、やはりこれからは総合的に何かを高い次元で提供することが企業にとって求められる要素であるのは間違いないことだと思う。人にしたっておそらく同じことがいえるかもしれない。一昔前は歌って踊れるなんて肩書で受けているタレントさんがいたが今はそんなのは当たり前で容姿もよくて人を笑わせる機転の利くマルチ型ではないと生き残れないだろう。でもそれは、我々一般人も同じだ。就職や転職にしても資格のひとつふたつは今や当たり前だ。資格の有無はともかくとしても、その人が周りから求められたことを高いレベルであるいは高品質で何かを提供あるいは再現できる。そんな資格というよりもその人独自の固有の能力を持った総合評価の高い人間がこれからの社会には必要とされるのかもしれない。