Monthly Archive for 8月, 2013

敗戦記念日

今日は敗戦記念日。私がこの季節になるとどうしても戦争について何か感慨深げになる理由は多くは祖父の影響ではないかと思う。私が子供のころ晩ご飯の時ビールやウィスキーの水割りを好んだ祖父はホロ酔いになると決まって戦争の話を持ち出してきた。そんな祖父のことを少し書いてみたいと思う。

細田喜太郎(祖父)は明治44年神楽坂おこしで有名(当時)なお菓子屋の長男として生まれる。祖父の祖父は田安門の田安家に仕えており最後の将軍慶喜の秘書のようなことをやっていたらしい。大政奉還により慶喜公が江戸を離れるときお礼として曽祖父は慶喜公から巻物を2~3本拝受している。また攘夷の志士たちに追いかけられて刀でバッサリ切られた着物もしばらく箪笥の奥にしまってあったようだ。話を祖父に戻しましょう。記憶が曖昧で時系列で綴れないがよく憶えているのは、祖父が「軍艦で移動しているとき敵機来襲の警報がなる。ふと隣の部下の表情をみると恐怖で顔が引きつり中には髪の毛が逆立ちまるで怯えた猫のような兵隊もいた」こと。また監視兵から「右舷に魚雷」の叫び声。見てみると遠くに白い縦のさざ波が2本こっちに向かってくる。急旋回するが数秒間で一発が命中3~4メートル体が飛ばされる。慌てて命中した側に飛び込むと大きく破損した船の穴に吸い込まれてしまうため傾く船の逆側に飛び込まなければならない。早く飛び込まないと船が傾きフジツボの上を滑り降りるようになりお尻がズタズタに切れてしまうのだ。沈んでゆく船に吸い込まれないように全力で200~300メートル泳いで離れる。あたり一面魚雷の爆圧で死んだ魚が山ほど浮いている。しかし本当の恐怖はここからだ。水中深く沈んだ船から破損した板切れがすさまじい勢いで海面に突出してくるのだ。せっかく助かってもこの板切れの攻撃により命を落としたり致命傷を負ったものも少なくないという。祖父は魚雷に攻撃され海に投げ出されること計4回、いずれも何とかギリギリ助かっているが極めつけは部下と一緒に必死に泳ぎ10メートルほどの板に摑まってプカプカ浮いていた時のことだ。すでに沈没しかかっている船にとどめの魚雷、それが命中前に祖父が捕まっている板の反対側の方で爆発した。その爆圧で反対側に摑まっていた部下は死亡、祖父は辛くも九死に一生を得る。と綴れば切がないが、当時私は若かったせいもありなんとなくそういう祖父の話が煙たく感じたことがある。もっと詳しく聞いておけばよかったとまさに後悔先に立たずだ。

今日は思い出話のように拙い記憶を綴ってみたが、私自身の記憶が薄れないうちに何かにまとめたいと思っている。年々証言者が少なくなっているからこそこの無形の財産を受け継いでゆきたい形に残したい、そうしなければいけないと思っている。

68年目の夏にこの思いを新たにするのであった。