学校給食について

静岡県浜松市内の小学校でノロウィルスによる集団食中毒が発生した。保健所の調査の結果給食に使用されるパンがその原因と特定されパンの製造工場及び製造会社は営業停止に追い込まれた。下手すれば死者まで出かねない大惨事になるところ営業停止の行政処分は仕方のないことだろう。ノロウィルスや行政処分の云々はともかくここで少し学校給食の歴史についてふれてみたい。

終戦直後日本は全国的に物資が欠乏していた。そこでまず育ち盛りの子供たちだけでも最低限の栄養を補うために取られた政策が小学校の昼飯の支給つまり学校給食だ。

小生の父は昭和12年生まれで群馬県甘楽郡国峰(現群馬サファリパークの横)という片田舎で終戦をむかえたが当時(昭和20年)小学生だった父が言うには、学校の昼飯は基本的に弁当だったが途中から牛乳が出されるようになったと。父の実家は農家で食べ物には困らなかったらしいが牛乳のかわりに山羊の乳を飲んでいたそうだ。

一方母は同じく昭和12年の生まれで生活の拠点は東京の中野区だった。空襲がひどくなってきたため小学生時代は山梨県北都留郡笹子村で過ごした。当時(昭和22年頃)の笹子の学校給食は吹かしたさつま芋にケチャップが添えてあり時々脱脂粉乳の牛乳が出たのを鮮明に覚えているという。

ちなみに市川市では
昭和22年 学校補助給食(脱脂粉乳のみ)
31年 市川市立国府台小学校で完全給食(主食におかず、牛乳がついたもの)開始
39年 市川市立第五中学校で完全給食開始

その後、主食にお米の割合が増えたり果物やデザートが加わったりと改善が重ねられ現在に至る。

平成17年 国会本会議で食育基本法が制定される。
20年 市川市食育推進計画実施

小生の小学生時代は昭和50年前後で拙い記憶を辿れば、給食の主食は専ら食パン2枚でジャムやマーガリンが添えられもちろんおかずや牛乳もセットだ。週に一回ほどの割合でうどんのようなスパゲティミートソースや麺類が献立にあったのをおぼえている。小学校高学年の頃には主食に混ぜご飯が加わるようになり学友たちがこぞってお代わりの列をなした。

何年かまえ学校給食費の滞納問題が話題になったが、国民の修学レベルの向上を目的として義務教育制度が導入されたわけだからその学びの場で半日以上を過ごす生徒たちにとって学校は第二の家庭といってもよい。先生や友達と一緒に食事をして当番制で準備や片付けをすることは社会の集団生活を学ぶことに他ならない。つまり給食は義務教育の一環なのだ。だとすれば学校給食は保護者負担ではなく一律自治体若しくは国負担にするべきと考える。

確かにこれ以上の負担は国庫や自治体財政を圧迫する危険もあるだろうし最近では食物アレルギーの子供たちも多いことから弁当にしようという意見が出るのもわからないことはない。しかし自分自身の経験もふまえ一定のルールと分担責任のもとに顔を合わせながら食事をするその有益性は卒業してからでないと中々わからないものだ。

学校給食も立派な食育なのである。

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