南相馬市 忘れてはいけない 問題と課題 ①

 2013年5月末、我々は福島県南相馬市に出向いた。ことのきっかけは今年の2月にとある会合で南相馬市の桜井市長のお話を聞く機会があり、2年経った今でも市のおかれている状況は復興とはほど遠いところにあるという現実をお伺いした。高速を走ればほんの3~4時間のところにある被災地のことがいつの間にか他人事になっている自分が恥ずかしく思えたからだ。

5月21日(火)
 6:00JR本八幡駅北口集合、渋滞する前に常磐道へ出る。前日の雨が残っているせいかやや蒸し暑く路面が光って見える。いわきを過ぎて関本PAで一服(実は3服目)。現地案内役の今野さん(小高区塚原行政区長、つながっぺ南相馬理事長)に教えられたとおり磐越道に入り船引三春で降りる。常磐道を南相馬市に向かってそのまま直進すると20km圏内の立ち入り禁止区域になるため通行止めになっているためだ。実際、常磐道から磐越道への分岐点にこの先通行止め印がないため南相馬市へ直進してまた引き返してくるドライバーが少なくないという。したがってここからカーナビは役に立たないためよそ者の我々は今野さんの携帯ナビで進むことになった。三春から一度川俣町警察あたりにナビを設定し川俣町から再度南相馬市に設定する。つまり20km圏内を左側から北上し大きく右側(海側)に迂回してゆくルートだ。途中飯館村を通過、非難区域のせいだろう約10~15kmもの間誰一人ともすれ違わないし見かけない。商店街らしき箇所を通り過ぎるがすべてシャッターが下りている。動いているものは道路を行き交う車だけで生活感がないし、どの畑も水田も雑草が生い茂ってただの野原のようだ。
 11:45南相馬市役所着。23日に桜井市長との面談を入れているため市長室秘書課へ挨拶。そのまま市役所地下の食堂でスタッフとカツカレーを食べる。美味かった。
 13:45案内人の今野さんと合流し小高区へ。小高区は南相馬市から福島第一原発に向かい10kmほど南下した行政区だ(2012年4月16日より非難指定解除準備区域として宿泊以外の一時帰宅が可能になっている)。国道6号線を下り小高区に近づくにつれ道路の両側に雑草の生い茂った広大な野原が広がってくる。もともとは美しい水田地帯だったが津波による塩害と高い放射線量で人が入れないため2年以上も手付かず状態だ。さらに道路のあちこちで50m間隔くらいか大きく表面のアスファルトが剥がれているがこれは津波によるものでこのあたりで海岸から1km以上内陸だ。また野原(元は水田)のいたるところに鉄の塊のような多く見られるようになってきた。よく見ると津波の力によってクシャクシャに丸められた車やクレーン、トラクターなどの重機の残骸でどれもこれもまるで巨大なペンチで引きちぎられたようなものばかりだ。きれいに残っている平屋の建物も数件見たが、実は津波で1階部分だけがきれいに剥ぎ取られてしまったためだという。

今野さんの自宅があった海岸近くへ向かう。海岸の左側には20m以上の丘があり右側は福島第一原発に向かい数百メートル防波堤がつづく。この防波堤は高さ5m以上の巨大なコンクリートの塊だが50~100mくらいにわたって所々が抉るように削り取られている。事実、津波は左側の丘の上まで到達したというから20mは超えていたことになる。水田のあちらこちらに散乱している巨大なテトラポットがその破壊力を証明している。今野さんの自宅もこの水田の一角にあったようだが基礎を残してきれいになくなっていた。迫り来る津波はままるで大きな黒い壁のようで押し寄せてきたときはまさに身の毛もよだつ光景だったという。
 小高区は海側が津波による被害、内陸部が地震による被害でガス、水道、電気などの生活インフラが壊滅、そして山間部は福島第一原発事故の影響で放射線が高く立ち入る事ができない3重苦の難問を抱えている。実際小高区から福島第一原発にかけてまたその下の浪江町などどの地区も同じで津波、生活インフラ、放射線という難問を抱えており原発に近づくほどその程度はますますひどくなる。

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