2013年10月 宮城県(東日本大震災被災地)視察
2013年10月 宮城県(東日本大震災被災地)視察
■2013.10.24 (Facebook投稿)
女川町のあちらこちらに献花台があります。これは七十七銀行跡地。会社側の避難誘導が適切でなかったとして裁判中ですが、勝ち負けのない裁判の裏側には悲しみのやりどころのなさが垣間見られます。
■視察リポート2013/10/20
先日の台風26号に続き27号も勢力を保ち北上中という。どうやらこの国は自然災害とは切っても切れない運命らしい。被災された方々には心からお悔やみを申し上げます。
昨日宮城県の東松島~塩釜~石巻~女川をまる一日を費やし強行視察してきました。朝6時に出発し東北道を一路北へ。今回は5月下旬の南相馬市~浪江町~原発の視察ルートと異なり最初の目的地の東松島までほぼ一直線で高速を利用できる。東松島は言うまでもなく日本三景のひとつの景勝地だ。日中の気温は15度前後で上着がないと少々肌寒さを感じるが、さすが観光地というもの多くのお客さんで賑わいを見せており英語圏よりも中国、韓国からの方が多くみられたのも印象的だった。この光景を見る限り2年7か月前の出来事が嘘のように思える。
震災当時強い揺れにもかかわらず倒壊した建物はほとんどない。ただ明治時代からの古い木造二階建てが多く耐震の面から現在使用できずにいる建物も数件みられる。津波の高さは2~3mだったというがお土産屋さんの入り口の真ん中あたりまで達していたり観光用ボートや遊覧船までもが陸に打ち上げられたところから考えると3~4mはゆうにこえていたのではないか。店舗の入り口に「ここまで津波が来ました」との貼紙も何軒か見受けられる。数人の方にインタビューしてみたところ徐々に活況を取り戻しつつあるあるという。遊覧船にも多くのお客さんが列をなして並んでいたしとにかく何よりだ。
東松島をあとにし国道45号線と398線を交互に移動しながら塩釜、石巻へ。海側には海産物関係の加工施設がたっているが海側より300~400m内側にある道路の両端には雑草と埋め立てあと以外は何もない。もともとの街並みや景色を知らないため前後の比較がうまくできないので途中またまた地元の方にインタビュー。この辺一帯は漁港を中心に魚市場や水産加工業者の施設が立ち並び道路端には何軒ものお店や商業施設が並んでいたとのこと。津波の高さは7m、内陸1㎞まで及び津波到達後10分間であたりは瓦礫の山になったようだ。海に面している漁港まで出てみるとイカ釣り船がその仕事の準備に追われていた。しかしセリ場の建物の壁、屋根は当時のまま破損しており観光スポットにもなっていた魚市場は閉鎖されたままだった。海とともに生活を営んできた町はいま復興に急ぐ工事関係者で慌し様相を呈しているが道のりはまだまだ険しい。前回視察の南相馬市のように放射線の心配はないが自然との共存共栄と住民との安全な暮らしの境目をどこに引くのか大きな課題を残している。
■視察リポート2013/10/26
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」とは正岡子規が奈良に立ち寄った時にふと詠んだ句で松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」と並び代表的な俳句の一つだ。正岡子規と言えば野球を愛したことで有名だが野球用語の和訳、四球、死球、三振等々その他現在も野球解説で使われるコトバを最初に翻訳したのが子規だということはあまり知られていない。帝大在学中故郷の松山に帰っては友人と野球をし、袴に帽子、腰には手拭いという格好が何ともハイカラで子供たちがみんな真似したという。今日から野球は頂上決戦、先週松島から女川町にかけて視察をしたのち仙台経由で帰る途中煌々と輝くクリネックススタジアムを見てきたせいか個人的には東北のチームに勝たせてあげたいと思うのだ。
深夜に地震があった。寝ていたせいか実際よりもやや強く感じたが東北は震度4、熟睡も寸断されてしまう揺れだ。先週石巻から沿岸沿いを北上し女川町へ向かった。地震と津波による東北沿岸部の被害はどこもかしこも同じ有様でどこまで行っても野原のような状態が続いており5月に訪れた南相馬市、浪江町(原発隣り)から続いている光景だ。やや内陸部から女川町に入りあの景色が目に入る。海を正面に見ながら左手にある坂を上ると避難場所に指定されている地域の医療センターがあり地上から約20mの高台だ。このセンターの1階が水没してしまっているので津波の高さは30m近かったとされる。この女川町から北部の岩手県に至ってはリアス式の海岸になっており沿岸部が鋭角に内陸に伸びているため津波被害はより甚大になっている。「復興」の定義は、元どおりになること、以前の勢いが元にもどること、とあるが海とともに生活を営んできた地域の基盤にそれこそ巨大なほうきで掃除をしたように何もなくなっている様を見る限りそれに費やす時間や労力もさることながら住まう方々の忍耐力は如何程かと思う。数百キロにわたり野原と化してしまった場所には以前は確かに人々が暮らし生計を立てていた、その人々が現在仮設住宅や他の自治体で不自由な生活を余儀なくされている。復興税も
いいがまず100兆円以上の剰余金を出している特別会計を切り崩し早急に復興費用に充てるべきだ。消費増税や憲法改正の前に特別会計法にメスを入れる勇気こそが未来の日本に大きな希望を与えることになるだろう。
2013年7月 福島原発被災地の写真展開催
2013年7月 福島原発被災地の写真展開催
■2013.7.16~21 写真展開催
市川の写真家、
田中正文氏とのコラボ写真展
「検問所のむこう側」
7月16日(火)~21日(日)
市川市八幡市民談話室2F
福島県南相馬市と浪江町の「今」と課題を、
ほそだ伸一がリポートしました。
2013年5月 福島県南相馬市・浪江町視察
2013年5月 福島県南相馬市・浪江町視察
■2013.5.21~23
5/21
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・南相馬市小高区を視察
・小高区塚原行政区長、つながっぺ南相馬理事長インタビュー
・浪江町市街地および請戸地区を視察
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5/22
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5/23
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・南相馬市小高区を視察
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緊急リポート
ほそだ伸一 通信 ~南相馬市 忘れてはいけない 問題と課題~
2013年5月末、我々は福島県南相馬市に出向いた。ことのきっかけは今年の2月にとある会合で南相馬市の桜井市長のお話を聞く機会があり、2年経った今でも市のおかれている状況は復興とはほど遠いところにあるという現実をお伺いした。高速を走ればほんの3~4時間のところにある被災地のことがいつの間にか人事になっている自分が恥かしく思えたからだ。
5月21日(火)
6:00JR本八幡駅北口集合、渋滞する前に常磐道へ出る。前日の雨が残っているせいかやや蒸し暑く路面が光って見える。いわきを過ぎて関本PAで一服(実は3服目)。現地案内役の今野さん(小高区塚原行政区長、つながっぺ南相馬理事長)に教えられたとおり磐越道に入り船引三春で降りる。常磐道を南相馬市に向かってそのまま直進すると20km圏内の立ち入り禁止区域になるため通行止めになっているためだ。事実、常磐道から磐越道への分岐点にこの先通行止めの印がないため南相馬市へ直進してまた引き返す方が少なくないという。したがってここからカーナビは役に立たないためよそ者の我々は今野さんの携帯ナビで進むことになった。三春から一度川俣町警察あたりにナビを設定し川俣町から再度南相馬市役所に設定する。つまり20km圏内を左側から北上し大きく右側(海側)に迂回してゆくルートだ。途中飯舘村を通過、避難区域のせいだろう約10~15kmもの間誰一人ともすれ違わないし見かけない。商店街らしき箇所を通り過ぎるがすべてシャッターが下りている。動いているものは道路を行き交う車だけで生活感がないし、どの畑も水田も雑草が生い茂ってただの野原のようだ。
11:45南相馬市役所着。23日に桜井市長との面談を入れているため市長室秘書課へ挨拶。そのまま市役所地下の食堂でスタッフとカツカレーを食べる。
13:45案内人の今野さんと合流し小高区へ。小高区は南相馬市から福島第一原発に向かい10kmほど南下した行政区だ(2012年4月16日より避難指定解除準備区域として宿泊以外の一時帰宅が可能になっている)。国道6号線を下り小高区に近づくにつれ道路の両側に雑草の生い茂った広大な野原広がる。もともとは美しい水田地帯だったが津波による塩害と高い放射線量で人が入れないため2年間手付かずでいる。さらに道路のあちこちで50m間隔くらいか大きく表面のアスファルトが剥がれている。津波によるものだがこのあたりで海岸から1km以上離れている。また野原(水田)のいたるところに鉄の塊のようなものが多く見られるようになってきた。津波の力によってクシャクシャに丸められた車やクレーン、トラクターなどの重機の残骸だ。巨大なペンチで引きちぎられたようなものばかりだ。きれいに残っている平屋の建物も数軒見たが、実は津波で1階部分だけがきれいに剥ぎ取られてしまったという。
今野さんの自宅があった海岸近くへ向かう。海岸の左側には20m以上の丘があり右側は原発に向かい数百メートル防波堤がつづく。この防波堤は高さ5m以上の巨大なコンクリートの固まりだが所々50~100mくらいにわたって抉るように削りとられている。事実、津波は左側の丘の上まで到達したというから20mは超えていたことになる。水田のあちこちに散乱している巨大なテトラポットがその破壊力を証明している。今野さんの自宅もこの一角にあり基礎を残してきれいになくなっている。大きな黒い水の壁が押し寄せてきたときはまさに身の毛もよだつ光景だったという。
小高区は海側が津波による被害、内陸部が地震によりガス、水道などの生活インフラが壊滅、山間部は原発事故により放射線量が高く立ち入ることができない3重苦の難問を抱えている。実際小高区から原発にかけてその下の浪江町などどの地区も同じで津波、生活インフラ、放射線という難問を抱えており原発に近づくほどその程度はますますひどくなる。
浪江町
より原発に近い浪江町に向かい国道6号をさらに10kmほど南下する。途中警察が立っている。20km地点だ。1ヶ月前の2013年4月16日より一時帰宅(9:00~16:00まで)が可能になったばかりなので小高区よりもまだまだ荒れている。常磐線浪江駅の周辺そろそろ町の中心部へ入る。町への出入りの道は決められており警備員によって通行証もしくは車のナンバーを記録される。避難区域をいいことに空き巣が横行しているのでその取り締まりも兼ねているらしい。浪江駅から目抜き通りを抜けて街を一巡する。ここは少し内陸部に入っているため津波被害はないが地震による建物の損壊が激しい。築30年以上の建物はほとんど倒壊か半倒壊、かろうじて倒壊は免れていても斜めに傾いているものが多く到底人が住める状態ではない。当然人っ子ひとり見かけないし風で空気がこすれる音以外は何も聞こえない異様な静寂に包まれた雰囲気だ。不適切な言い方だが廃墟という言葉を使わざるを得ない。駅前ロータリーの信号だけが唯一その役割を規則正しく果たしているが無性に空しさがこみ上げてくる。
請戸
福島第一原発に向かって国道6号の右側が浪江町の中心である商店街、その反対側の沿岸部に向かう。先ほどの検問と同じように反対側にも警備員がいる。16時までにこのゲートに戻らないと始末書のようなものを書くらしい。2kmほど直進すると小高区と同じように広大な野原(くどいようだがもともとは住宅街と美しい水田地帯)が広がり、その中に瓦礫が点々と散らばっている。さらに進むと大なり小なりの船の残骸が見えてくる。2年前までは請戸漁港として賑わっていた漁船の数々だ。漁港や市場ももちろんあったはずだが、かつての場所もわからないほど跡形もなくなっている。海岸の堤防を原発に向かって右側に請戸小学校が見えてくる。薄青色の立派な小学校だ。近づくにしたがってその惨状に目を覆いたくなる。校舎の正面(校庭)には高さ3~4メートル、100m四方に積み上げられた瓦礫の山、美しかった松の防潮林が車や船、トラクターと一緒にミキサーにかけられたように折れ曲がっている。給食室だったのだろう直径1mほどの大きな釜3~4こほどがステンレスの巨大な冷蔵庫とともに無残な形になっている。給食室を抜けて隣の体育館(講堂)へ。ここも天井の高い立派な建物だ。正面の演台には卒業式の横断幕がそのままになっている。隣の大きな時計は3:46、地震発生から1時間後に津波が到達したことを示している。広い床は両端が10メートル四方づつ大きく陥没している。おそらく津波による汚泥の重さに耐えられなかったのだろう、1階部分はほぼ水没したようだ。子供たちは無事だったのだろうか、安否を思うといたたまれなくなる。外側の階段から2階へ、鉄製の手すりが毟り取られたようになっている。各学年1クラスづつ端から順に並び、理科室、家庭科室、音楽室と並ぶ。どの教室も広々として立派なものだ。自衛隊をはじめとする救援の方々がきれいにしたのだろう、生徒たちの学びの跡がはっきりと感じられる。各教室の黒板にはそれを裏付けるように各方面からの力強いメッセージが書き込まれており思わず目頭があつくなる。教室の窓から校庭に向かっている窓をのぞくと正面に原発が見える。生徒や保護者の方々はいったいどのような気持ちでこの景色を眺めるのだろうか。